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PN:和蔵 一起
HN:カズ@憧れの大地
バックパックを背に、暇さえ見つかれば世界のどこか(主にアジア)を巡り歩いているバックパッカー。
2001年、2007年にチベットを訪れ、その文化に強く心を引かれる。
2011年9~10月、ちょっと社会人をお休みして古き良きチベット文化の薫りが残るインド・ラダックへ。
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帰国~“日常”から“日常”へ

2011年10月23日

午前0時35分。まずは香港を目指してジェットエアウェイのエアバスでデリーを後にする。

香港には午前8時ごろに到着したが、時差があるので飛行時間は僅か5時間。機内食を食べたりもしたので、睡眠時間はほんの少ししかとることができなかった。

ここでの乗継時間も5時間。長い時間だが、外に出るには短すぎる。空港内のWi-Fi(PCCWが使い易くて便利)でインターネットをしたり軽く食事をしたりして搭乗時間を待つ。

そして午後2時前、香港を出発。約4時間半後の午後7時すぎ、成田に到着した。

これで、今回の旅は終了した

インドでの“非日常”から日本での“日常”に戻った――と、普通なら思うことだろう。
しかし、私の場合は違う。
私の場合、海外を巡ることは決して“非日常”などではなく、“日常”そのものなのである。

“非日常”なんて、言葉のあやだ。
どこにいようと、
どんな時を過ごそうと、
その時自分のいる場所、置かれいている環境こそが“日常”そのものなのである。

今回旅に出たのも、インド・ラダックという“日常”へと足を踏み入れたにすぎない。
この日の帰国も、インドという“日常”から、日本という“日常”に戻って来たにすぎない。

そもそも、海外に身を置くことがどうして“非日常”になるのだ?
同じ人間が住む場所に身を置き、同じ地球の上にいるという意味では、日本にいることと何も変わらないではないか。

だから、日本に戻ってきたからと言って、特に何も感慨は無い。
場所が違うというだけで、明日も昨日までと同じ“日常”が始まるだけのことである。

デリー・空港メトロ

2011年10月22日

かつてのデリーでは、空港へ行くのにタクシーやリキシャを使うしかなかったようだが、今では空港メトロがニューデリー駅から出ている。
ニューデリー駅東側にある入り口から、通常のメトロとは違う通路を歩いて、空港かと思ってしまうようなセキュリティチェックを受けた中で切符を購入。空港までは80ルピー。

速い(空港まで僅か15分!)
安い(メインバザールからのタクシー250ルピーの僅か3分の1!)
快適(エアコン完備の最新車両!)

で、込み具合は・・・
デリーの空港メトロ内部
ガラ空き・・・
時間帯にもよるのかもしれないが、これだけ空席が目立つと赤字路線になって廃線の憂き目とならないかと心配してしまう。

いずれにせよ、メインバザール(パハルガンジ)を目指す旅行者にとっては嬉しい改善と言うことができるだろう。私も、メインバザールから帰りの空港へ向かうのに速く、安く、快適に利用させていただいた。

但し、このメトロのニューデリー駅出入り口が、国鉄駅の東側にあるというのが落とし穴。先日書いたように、メインバザールのある西側から東側へは国鉄駅の歩道橋を渡って行くことができるが、逆の東側からは歩道橋に入ることができないので、空港からメインバザールを目指す場合はリキシャなどで遠回りしなければならないので、ご注意を。

ニューデリー駅とメインバザール

2011年10月21日

明日の帰国の際には、新しくできた空港メトロでデリー空港に向かう予定である。念のため、ニューデリー駅東側にある駅に行って、場所と最終電車の時間を確認した。午後9時にはメトロに乗りたいと思っていたところ、最終電車は11時半だという。それなら全く問題ない。

ところで、ニューデリー駅西側にあるメインバザールと駅東側にあるメトロ駅の移動に若干の問題がある。
メインバザールからニューデリー駅東に行くには、駅構内の歩道橋を歩いてしまえば問題ない。問題があるのは、逆の駅東からメインバザール方面へ行く場合である。西から入ることができる歩道橋が、東からは2つある歩道橋の両方とも「No Entry(入っちゃダメ)」になっているのである。入り口にはしっかり警官が見張っているので隙を見て入ってしまうことも困難だ。

で、コンノート・プレイスを経由するというとてつもない遠回りをさせられる羽目になる。
歩きなら、コンノート・プレースを1区間時計と逆回りすればいいだけなのだが、コンノート・プレースは言わば大きなロータリーで、車両は時計回りにしか進むことができない。歩きなら1区間で済むところをタクシーやリキシャだとほぼ1周しなければならない。
この時私はメトロ駅で偶然知り合った日本人男性2人組と一緒にオートリキシャに乗ったのだが、歩道橋を歩けば5分で済むところをエンジン付きの車で10分ほどかかってしまった。ちなみに料金は、80ルピーの言い値を70ルピーに値下げさせた。

余りに不合理。余りに不条理。
もう少しどうにかならないものか・・・

クシナガル~ゴラクプル~デリー

2011年10月21日

クシナガルからデリーへの帰途は、最寄り鉄道駅のゴラクプルを経由してとなった。クシナガル~ゴラクプルの間は50kmほどだが、道路はかなり整備されていて1時間半ほどでスムーズにゴラクプル・ジャンクション駅に到着することができた。

ところが、その駅でアクシデントが発生した。
私が乗るはずだった10月20日の22時5分発の列車がなかなか来る様子が無く、待っているうちに日付が変わってしまった。駅の管理室に行って尋ねてみると、23時30分に出発してしまったという。駅の列車情報TVモニターをじっと見ていたが、その列車番号は1度たりとも表示されることがなかったにも関わらず、である。あり得ない・・・
じっとしていても仕方が無いので、駅員に他のデリー行きの列車へ案内してもらったが、運賃をもう一度払わなければならなかったのは言うまでもなく、上のランクのACスリーパー(エアコン付き寝台)しか空いておらず予定よりも高い金を支払う羽目になってしまった。

しかし、この列車に替わったことはむしろ吉と出た。
まず、本来乗る予定だった列車はデリー行きはデリー行きでもデリーのどこにあるかよく分からない駅へ行くものだったのに対し、替わった後の列車は宿泊予定地のメインバザールまん前のニューデリー駅に到着してくれた。
次に、実際に乗った列車(特急)がインドの列車の割にはスムーズに走ってくれて、午後2時すぎにはニューデリーに到着。ゴラクプルの時点で既に1時間半遅れていた、デリーのどこかの駅12時半到着予定の本来の列車(恐らく祭り期間の臨時便ではないかと思われる)よりもむしろ早くデリーに到着したのではないかというくらいなのである。
ACスリーパーの車両は、構造こそエアコン無しのスリーパークラスと変わらないが、乗客が若干少ない分スリーパークラスよりもゆったりとした感があり、乗っているお客もスリーパークラスのようにタチの悪い奴が交じっていない分安心感があった(こういう言い方は余りしたくないのだが、4年前にスリーパークラスでデジカメを盗まれたトラウマがあるもので・・・)。

ともあれ、予定通りの日付でデリーに戻ることができた。
数日前と同じHare Rama Guest Houseに入り、この日は明日(実際には日付が変わって明後日)夜の帰国に向けて、休養と準備をするばかりだ。

ダラムサラ~デリー

2011年10月16日

ダラムサラから夜を徹してインドの首都デリーへと向かうバスは、VOLVOバスとデラックスバスの2種類があった。私はエアコンが無く、リクライニングも並であるランクが下のデラックスバスを選んだが、これで十分。この時期はエアコン無しでも車内の室温はちょうどよく、リクライニングも浅すぎることなくちょうどいい塩梅だった。尻だけはちょっと痛くなったが、そんなにクッションが利いていない訳でもない。

午前6時すぎ。バスはデリーのチベット難民キャンプがあるマディスマジュラに到着。他の外国人3人でメインバザールまでオートリキシャを相乗りする。しかし、インドのリキシャワラーはタチが悪い。メインバザール手前の場所にある、つるんでいると思われるホテルの前に泊まって、「さあ、こちらのホテルにどうぞ」とくる。しかし、甘く見てはいけない。私と更にもう1人、既にメインバザールを知っている乗客がいたのである。
「ここメインバザールちゃうやろ!」(勿論英語で言ったのだが、なぜかここでは関西弁で書いてみた)
と言うと、リキシャワラーは笑ってごまかしながら、最終的にはメインバザールまできちんと行った。

リキシャが停まった所のちょうど近くに、宿の候補と考えていたAjay Guest Houseがあったのでまずは行ってみたが、エアコン無しでも500ルピーと少々高い。向かいのHare Rama Guest Houseのフロントを覗いてみると「エアコン無し300ルピー」となっている。部屋もそんなに悪くなかったので、こちらに泊まることにした。

さて、帰国の途に就く前に、もう1か所、今回行っておきたい場所があった。ブッダ入滅の地・クシナガルである。前回のインド・ネパール訪問で、生誕の地・ルンビニ、苦行の地・ラージギル、悟りの地・ブッダガヤ、初説法の地・サールナートには既に行っていたのだが、どういう訳か入滅の地だけ行きそびれていた。今回のインド訪問でどうしてもその穴を埋めたかったのである。
列車でゴラクプルまで行ってそこからバスでアクセスするのが便利そうだったので、ニューデリー駅に行って切符を買いに行くか。と、それよりも、予想通りの展開ではあったが、日本でとった復路の日付が変更可能な航空券の予定日よりもやはり早めの帰国となりそうだ。こちらの変更手続きを先にやっておくか。

そこで、コンノート・プレイスにあるジェットエアウェイズのオフィスに向かったが、どうやら元あった場所から移転した模様。同じコンノートプレイスのGブロックに移ったと聞いたのでGブロックに行ってみたが――はてどこだろう。
あ、「ツーリストインフォメーション」の看板がある。あそこで聞いてみよう。

ところが、場所を聞くつもりだっただけのそのツーリストインフォメーション――ではなく、DELHI TOURSという旅行社だった――で、結局日付変更の手続きをすることになった。よく考えたらこの日は日曜日。航空会社のオフィスも今日はCloseなのだ。それならここでやってしまった方がいいだろう。
ところで、私がとった航空券は純然たるオープンチケットではなく、「復路のみ、空席があれば、目的地以降1回のみ無料で変更可。経路変更は不可。 *現地で変更事務手数料が別途かかる場合があります。」というものだった。その「現地で変更事務手数料」というのが曲者で、これに結構な値段がかかってしまった。

そして、クシナガル行きも、ニューデリー駅の外国人専用チケットオフィスが日曜で閉まっているらしいこと、現在インド全体でフェスティバルが行われていて列車のチケットが手に入りにくいとのこと、ゴラクプルからラージギルのバスが予想以上に少ないようであることなどから、こちらでお世話になる流れになってしまった。
最初は行きも帰りもゴラクプル経由で行く方向で話を進めていたのだが、
「クシナガルなら、バラナシから車でアクセスする方がいいですよ。途中に他の仏教遺跡もありますし」
と、日本語の達者なベテラン職員が横から入ってきた。
そういうことなら、デリーから夜行列車でバラナシに行って、翌朝到着したら車でクシナガルへ・・・

待て待て待て。
バラナシに行くなら、素通りはしたくないぞ!

ということで、
 1日目 デリー―(夜行列車)→
 2日目 →バラナシ(1泊)
 3日目 バラナシ→クシナガル(1泊)
 4日目 クシナガル→ゴラクプル―(夜行列車)→
 5日目 →デリー、市内観光
という日程になった。

さて、お値段は・・・
先程のベテラン職員が電卓をたたく。
「3万5000」
「え!? 3万5000ルピー?」
「違う違う。3万5千円」
何だ、日本円か。それにしても高いな・・・
どうやら、バラナシ→クシナガル→ゴラクプルの車代が高くつくらしい。

その後、車や列車をエアコン無しにしたり、5日目の市内観光を無しにしたりで「ラストプライス」2万円まで引き下がった。

どうしようか・・・

2万円でも、自力で行くことを想定して考えていた値段よりも高い。しかし、ここまで引き下げることができたのだし、やはりクシナガルには行きたい。列車の切符の取りにくさを考えると・・・

よし。
これで行こう!

帰国日こそ日曜が明けた翌日にならないと決まらないが、これで取りあえず今回の旅の最終段階の日程が固まった。

マナーリー~ダラムサラ

2011年10月 6日

マナーリーで迎えた2日目の朝。宿に近いチベット寺院2つを参拝した後、いざ、今回の旅で第2の目的地であるダラムサラへと向かう。
ところが、マナーリーのバスターミナルで、前日に買ったチケットの車が無く、取りあえずクルまで行ってそこでダラムサラ行きに乗り換える、ということになる。

クルでの乗り継ぎは、最初のバスの車掌が案内してくれたお陰でスムーズにできた。と言うより、乗り継いだらすぐの発車でトイレに行く暇すら無かった。

乗ったバスは「Ordinary」、即ちごく普通の鈍行バスで、途中で何度も停まっては客を乗降させ、要所のバスターミナルではじっくり停まって客を集め、という実にゆったりとしたものだった。
バスは途中までは、おおむね山道を上るコースをたどる。しかし、後半になるとほぼ一貫して山道を下りる形となった。ダラムサラは山のてっぺんにあってその上にはもう街は無い、というイメージが前回の訪問であっただけに「おいおい、どこまで下りるんだ?」と少し不安を覚えた。しかし、よくよく外を見れば山を下っているというよりは山そのものがだんだん低くなっていて、それに沿うようにして走っていたのだった。
もう一つ違和感を覚えたのは、前回はチャッキバンクからアクセスして、ダラムサラに着くまでは人里離れた山奥の道をひたすた走ったような記憶があったのだが、今回は到着直前まで賑やかな街を幾つも通ったことだった。しかしこれも、コースが違えば車窓の外に見える風景も変わって当然のことだった。

午後6時すぎ、ダラムサラのバスターミナルに到着した。しかし、これで目的地に着いたと思ったら大間違い。ダラムサラには「ロウアーダラムサラ」と「アッパーダラムサラ(通称『マクロードガンジ』)」の2つの地域があり、旅行者にとって「ダラムサラ」と言えば後者なのだが一般的に「ダラムサラ」と言えば前者なのであるらしい。ここから更に、すし詰めのジープタクシーで10kmほど山道を上ることになる。(ちなみに、この時の私の隣席は、女性に抱えられた大きな犬だった)

午前8時20分にマナーリーを出発して約10時間30分後の午後7時前、ようやく目指すマクロードガンジに到着した。

 9月26日:7時間
 9月27日:11時間
 9月30日:10時間
 10月1日:9時間半
 10月4日:19時間
 10月6日:10時間半

これ全て、ここ最近車で移動した所要時間である。

――移動しすぎ。

ここでは暫く、ゆっくりすることにしよう。

レー~マナーリー(2)

2011年10月 4日

バラトプルを出てから間もなく、バララチャ・ラを越える。高さは先程越えたナキー・ラと同じ4950m。同じ高さから下ってまた同じ高さまで上ってきたことになる。ご苦労なことだ。
このあたりからだったか、チョルテン(仏塔)やタルチョ(五色の祈祷旗)がまばらではあるが見られるようになる。再びチベット仏教圏に入ったということであろうか。

ダルチャで2度目のパスポートチェックを受けてから30kmほど走った後、割と大きな街が見えてきた。ケーロンである。田舎町なのだが、このコースを走っていて明るい間に見たのがテント村だけだった私の目には、かなり大きく感じられた。
見たところ、チベット料理の店やチベット人の村落もあるようだが、道端の祠などはむしろヒンドゥー教のものが目立つ。

ここで進路を南西から東へと大きく変える。40kmほど走ったところでコクサルに到着。ここで3度のパスポートチェックを受ける。
そして、ここでまたしても足止め。せっかくなので茶屋でチャイを飲んだ後、周りの景色に目を配ってみた。
すると、川の向こうにある村落のそのまた向こうの山肌に、ぽつんと1軒、ゴンパが建っているのが見えるではないか。村落の中にも、チョルテンが建っているのが見える。
ゴンパと村落の中のチョルテン
チベット人の多いマナーリーに近づいている証拠だろう。

午後4時。足止めが解除され、ラストスパートへと走り出す。この先には最後の峠となるロータン・ラが待ち受けているが、標高3978mとこれまでのものよりも1000mも低い。
しかし、このラストスパートが過酷なものとなった。

峠を登る車窓の外には、山々が連なっている。そして、その山々の頂に雲がかなり厚くかかっているのが分かる。
山々にかかる雲

そして、車がにわかに霧に包まれた。
いや、と言うより・・・

車が雲の中に突っ込んだのである。
勿論、空は全く見えなくなった。青い空がかけらも見えなくなるなんて、何日ぶりだろう・・・

見通しが悪くなった上に、これまでの舗装状態が嘘のように、道が土むき出しの悪路になった。今回の行程最大の難所に突入である。
今回の行程最大の難所

峠はすぐに越えることができた。しかし、マナーリーはここよりも1000mも下である。ここから先はひたすら下りだ。
下りとなるとどうしてもスピードが出てしまうので、谷側に落っこちないように細心の注意が必要となる。時には対向車も来るので、すれ違う時にも細心の注意と譲り合いの精神が必要だ。
霧(と言うより雲)は谷の底までかかっている。谷底が遥か下に見えるケースも恐ろしいが、こういう時は谷底がどうなっているか分からない方がむしろ恐ろしい。

無事谷に降り、道路のアスファルトも復活した。これで終わりかと思いきや、車は更に緩い下り坂をダラダラと走っていく。
賑やかな街に到着し、いよいよゴールかと思いきや、単なるマナーリーの衛星都市(衛星街?)にすぎず、本当のゴールは更に先だ。
そして、マナーリーに入る車、マナーリーを出る車が細い両側通行の道にあふれ、渋滞が始まる。結局この渋滞はマナーリーの街中に入っても続き、更には放牧から帰ってきたとみられる牛や羊の群れがその渋滞に拍車を掛ける。
この渋滞、どう考えても道路ができた当初よりも街の規模や人口が拡大し、その発展に道路の整備が追いついていないとしか思えない。

そして、夜7時前。私たちのジープはマナーリーの街中に到着した。
19時間にも及ぶ、文字通り山あり谷ありの移動に、今ようやくピリオドが打たれた。


※ 「ラ」とは「峠」のこと。

レー~マナーリー(1)

2011年10月 4日

前日の10月3日夜11時半すぎ。レーのジョカン前でマナーリー行きの車を待つ。
他に誰もいない道端に立って、犬たちがそう遠くない場所で激しく吠え出したのに少々びびっていたところに、車がやって来た。10人以上乗ることのできる大型のジープである。

準備が整ったところで、いざマナーリーまでの485kmの旅路に繰り出した。
まずは上ラダックの街道を走るが、何度も通った場所だというのに、真っ暗だといつもと違う場所のようにも感じられる。

ジープはティクセを、カルを通過し、ウプシで右に曲がって南へ進路を変える。ここから舗装道路が無くなり、車は砂煙を巻き上げながら走る。揺れも多少あり、車酔いを殆どしたことがない私も、少し気持ち悪くなった。

しかし、最大の敵は揺れではなかった。

異様なほどの寒さである。

これまで夜の時間帯は、例外なく宿の室内でぬくぬくと過ごしていた。そのため、ラダックの夜の気温がどのようなものか、まるで知らなかったのだ。

寒い。

この車にはエアコンなどという気の利いたものが付いていなかったので、風こそしのげるものの外の寒さが殆ど緩和されることなく伝わってくる。
私も勿論、できるだけの装備をして臨んだのだが、それでも寒い。もしかしたら0度を下回っていたのではないだろうか

これが、「1日の間に夏と冬がある」とも言われるラダックの夜の寒さか・・・

寒さに耐えつつ何とか軽く睡眠をとっていたところを、起こされた。レーから184km地点のパンで、パスポートチェックがあったのだ。

パスポートチェックを終わらせて暫くして、再び走り出したが、パンのテント村前で再び停車。見ると、ここに来た全ての車が停められているようである。
東の空が白み出してくるが、寒さは全く変わらない。テント村で焚かれている火に当たってみたりするものの、余り効果は無い。

空が明るくなった朝6時すぎ、ようやく通行許可が出て、待たされていた車が続々と発車していく。
太陽が山陰から出て車の中にまで陽光が射すようになって、ようやく凍りつきそうになっていた体が解凍されていった。

そこから先は、アップダウンが激しいものの、道路はおおむね舗装整備されていて、実に快適な道中となった。
舗装されたレー~マナーリーの道
しかし、そこは峠道。注意して走らないと↓のようなことになるので、ご用心。
前輪を踏み外したトラック

このコースの最高点は、夜の寝ている間に越えたタグラン・ラ(5317m)だが、パンを過ぎてすぐの所にも、ラチュルン・ラ(5065m)、ナキー・ラ(4950m)という標高5000m級の峠を立て続けに2つ越える。このコースは、計5つの峠越えを有する難所なのだ。
そんな過酷な道を走り続けるのだから、車も大変。道中、こんな場面も。
タイヤ交換
タイヤ交換

11時ごろ、バラトプルの茶屋で休憩。インスタントラーメンの簡単な昼食をとる。
明るくなってからというもの、このコース沿いにはゴンパ(僧院)は勿論、チョルテン(仏塔)もタルチョ(五色の祈祷旗)も見ることができず、仏教圏を外れた印象が強かった。しかしこの茶屋では、ここまで出張してきている人の信仰を反映してか、タルチョがはためき、テント内にはダライ・ラマ14世の写真も飾られていた。
バラトプルの茶屋
ここからマナーリーまで約200km。中間地点は既に過ぎていたが、区切り的にここから先が後半戦だと言っていいだろう。


※ 「ラ」とは「峠」のこと。

カルギル~レー

2011年10月 1日

カルギルからレーへのバスは定刻通り、5時に発車した。
インドの大型バスは一般的に、乗客の座席部分と運転席を含めた前部が壁とドアで仕切られているのだが、私と田辺さんは予約するのが遅かったためか、運転席側に割り振られた。
しかし、この席が割と面白かった。バスの行く手が他の客席よりも一目瞭然だし、バスを動かすルールが垣間見えたりもする。例えば、

・途中下車する乗客がいたら、車掌が運転席のドアをノックして知らせる。
・後ろの車に抜かれそうになったら、相手に「どうぞお先に」と手で合図する。

等々。
運転席側の座席

また、前日のパドゥム~カルギル間の時もそうだったが、行く時とは逆方向を走っているがために見え方が違ってくること、見えていなかったものが見えることもある。

前者の例は、
ラマユル・ゴンパ
違う角度から見下ろすラマユル・ゴンパ

後者の例は、
バスコのゴンパや城跡
バスコ(レーとアルチの間の街)のゴンパや城跡

同じ場所を通っても、角度・時間(タイミング)・天気等によって変化するから風景というのは面白い。

ところで、先述のバスコのゴンパ等を通過した直後のことだった。
ラダックには、かつて国境紛争の舞台になったという背景から、街道沿いにも軍事施設が多く見られるが、バスコにもそれはあった。そこの軍事施設にはこともあろうに、チョルテン(仏塔)やマニ車が設置されていたのである。
[マニ車を回しながら、チョルテンをコルラしながら、戦争の備えか?]
悲しい、やり切れない、腹立たしい思いで胸がつかえた。

さて、出発前にはカルギル~レーの所要時間は7~8時間ぐらいと聞いていたが、来る時の時間のかかり方を考えてみるとそんなに早く着けるとは思えない。しかし、来る時に大渋滞が発生していた終盤の区間を今回は車の殆ど無い早朝の時間に駆け抜けることができた時は、あるいはもしかすると、と期待させられた。
しかし、やはりそうはうまくいかなかった。
昼を過ぎると、車の通行量が増えたり工事が行われたりで、通行が妨げられる場面が何度か発生した。それでも出発から9時間半後の午後2時半にはレーに着くことができたのは、褒めてやってもいいかもしれない。

1週間ぶりに戻って来たレー――何か懐かしいような、ほっとしたような気分になった。
以前、このブログで「メイン・バザールが騒がしい」「癒しにならない」などと散々書いてしまったレーだが、こうして戻ってくるとその喧騒にまでも懐かしさを覚える。
バスを下り立った私の第一声は、こうだった。

「俺、やっぱりこの街が好きだ」

ザンスカール~カルギル(2)

2011年9月30日

カルギルへの車は、7時すぎになってようやくパドゥムを出発した。

来た時と同じ道ではあるが、進行方向が逆だと見える景色も違う。また、何度見てもいい景色というものもある。特にドゥルン・ドゥン氷河では、私も田辺さんもテンションを上げて、埃っぽい荒野を走っているにもかかわらず車の窓を全開にして写真を撮り続けていた。

今回特に印象に残ったのは、道と川の方向が西向きから東向きへと変わった後のスル谷の景色だった。山と山との間に、スル川が切り開いた広大な谷が横たわっているのである。
『風の谷』

[これこそ、『風の谷』だ・・・]

私は名作アニメ『風の谷のナウシカ』の情景を思い浮かべていた。

4年前、私は『風の谷』のモデルではないかといわれる同じくカシミール地方の、現在はパキスタンの実効支配下にあるフンザを訪れて、その清らかで幻想的な谷の風景に、なるほどこれは『風の谷』のモデルかもしれないな、と感じたものだった。ただ一つ、あの名作の谷に比べて狭いかな、という違和感だけがぬぐえなかった。

今眼下に見える風景はどうだろう。山と山に挟まれた広大な谷の中に、川が流れ、小さな家屋が点在し、収穫後ではあるが田園風景が広がり、緑の木々が林を形成している。
『風の谷』のモデルは実は、フンザよりもむしろその上流にあるラダックではあるまいか――そんな気がしてならなかった。

さて車は、なぜか途中で発電用のタービンをピックアップしつつ、スル川に並行する道を下っていく。行きと同じ3箇所のチェックポイントでパスポートチェックを受ける毎に、ザンスカールから遠ざかっているのだな、ということを感じる。

スタートで出遅れたため明るいうちに到着できるがどうかやや不安だったが、車は出発から10時間強の午後5時半、カルギルのメイン・バススタンドに到着した。その10時間の間トラックの荷台に置かれていたバックパックは、荒野の風に吹きさらされて埃まみれになっていた。

到着して真っ先に行ったのが、メイン・バススタンドでレー行きのバスを探すことだった。これが見つからないと騒がしいだけで何の面白みも無いカルギルで余分な長居を強いられることになる。
ところが探し始めて1分とたたないうちに、至極きれいなレー行きのバスが見つかる。運賃は1人300ルピーと、思っていたよりも安い。私と田辺さんは即そのバスのチケットを購入し、出発時間である翌午前4時半まで近くのゲストハウスで一息ついた。

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